第26回『侵略!イカ娘』 水島努監督による「おかしな居候もの」の系譜

[  カテゴリ  氷川竜介のチャンネル探訪  ] 2011年04月08日 12:00
2010年の秋番組で、
誰も予想しなかった大人気作品となったのが水島努監督の『
侵略!イカ娘』(原作:安部真弘)でした。
「1分の1スケール触手切り落とし」(第1巻)とか「ミニイカ娘フィギュア」(第3巻)とか、
ツボを押さえた特典のBlu-rayも、まさに大ヒット中です。

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 海洋汚染を続ける人類への復讐として、深海から人類制服を目的にやってきたイカ娘。
その侵略拠点として最初に襲撃した“海の家れもん”の相沢姉妹には
なぜか頭があがらず、いつの間にかこき使われ、同居して居候になってしまうことに……。
そんな感じで、制圧しに来たのに制圧されるという、「ほのぼの侵略コメディ」と宣伝文句まんまの内容と設定の作品です。

 本作のどこに魅力があるかと言えば、それはイカ娘の存在自身でしょう。
特に彼女の備える「かわいい美少女の外見とおぞましいはずの侵略者のギャップ」には、たまらないものがあります。
萌えキャラの中心からズレているかもしれないけど、充分にカワイイ外見。
庇護願望をかきたてるようなチャームポイントの数々が実は触手だったり、口からイカスミを吐いたりするという、得体のしれなさ。

 そんなイカ娘だけでも充分にキャラがたっているのですが、
相沢姉妹をはじめとする周囲のキャラが「深海からの侵略者」以上にエキセントリックで、次々に登場しては非常にイイ味出して笑わせてくれるわけです。
こうした「ヘンなキャラによって、ヘンな状況がエスカレートしてカオスな笑いが生じる」という演出は、これまで数多くのギャグアニメを演出してきた水島努監督ならではの持ち味でしょう。


(C)安部真弘(週刊少年チャンピオン)/海の家れもん

 監督のフィルモグラフィー(作品リスト)をみると一目瞭然ですが、そのキャリアはシンエイ動画からスタートしています。
演出家としては『クレヨンしんちゃん』シリーズで頭角をあらわし、
原恵一監督の名作として知られる『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』 や
『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦』などにも絵コンテと演出で参加している実力派なのです。

 そしてシンエイ動画といえば、『ど根性ガエル』や『新オバケのQ太郎』など
「居候ギャグ」というか「生活空間の中に同居してくる異物コメディ」を制作していたAプロダクションの流れをくむ会社。
そしてシンエイの代表作と言えば、藤子・F・不二雄原作の『ドラえもん』なわけです。
言わずと知れた「おかしな居候もの」の決定版です。

 こうした「居候もの」の特徴は、居候に「日常から飛躍した属性」がついていることです。
つまり「オバケの国から来た大食漢」であるとか
「Tシャツに貼りついた平面ガエル」であるとか「未来から来たネコ型ロボット」だとか……。
だいたい15文字もあれば書けるという特徴、
それはすなわち誰にでもイッパツで理解できる「キャラだち」をそなえているというわけです。
……という流れから分かるとおり、この『侵略!イカ娘』というアニメは、原作漫画があるとはいえ、
水島努監督でなければ描けない類の「おかしな居候」の系譜の正統なる後継アニメと言えるわけです。
「深海から人類侵略にやってきた娘」、
ほら15文字で書ける。
30分枠なのに、A、B、Cパートと3本立てなのもテレビアニメが始まったころの雰囲気まんまで、
実になつかしい雰囲気も漂わせているので、それがかえって新鮮だったのかもしれませんね。
 流れと言えば、もうひとつ。水島努監督による「美少女ギャグの系譜」にも注目してほしいところ。
ですが、文字数が尽きました。
というところで、また次回(敬称略)。


第25回 『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX Solid State Society』現代の姿を未来に投影するフィルム

[  カテゴリ  氷川竜介のチャンネル探訪  ] 2011年03月25日 18:42

3月26日から3D立体視版が劇場公開される
攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX Solid State Society』についても、少し考えてみましょう。

(C)2011 士郎正宗・Production I.G / 講談社・攻殻機動隊製作委員会

神山健治監督が押井守監督とはまた別の解釈でTVシリーズとしてつくった『攻殻機動隊S.A.C.』シリーズで唯一の長編です。
2D版は2006年で、
バンダイチャンネルでも視聴が可能です。

3D立体視バージョンでは主観映像に独特のサイボーグ的な立体感が加わっていて、
観客は自身が義体化されたかのような疑似体験ができます。
単にアトラクション的な趣向に留まらず、ドラマの緊張感を盛りあげるために使われているあたり、
実に神山健治監督らしい応用法だなと思いました。

物語内の時代は西暦2034年と20数年後の「未来」に設定されています。
世界大戦の影響もあって、人間がサイボーグ化することが特別ではなくなった未来。
今とは違う時代だから、起きる犯罪や人の行動が変わるかと言えば、
それはきっと変わらないとしているのが、非常に面白い視点です。
人の思考や価値観は時代や国、地域など環境次第で変わります。
ところが大局的にみると、人の本質ってそれほど変わらないものなんですね。
三国志や戦国時代、明治維新や第二次世界大戦の物語が時代を超えて好まれたりするのが、その証拠です。
逆に現代社会で起きることも、未来を描くヒントになりうるわけです。
第1シーズンの「笑い男事件」が「グリコ森永事件」や「丸山ワクチン事件」など昭和の事件を
換骨奪胎して電脳社会に投影した姿勢は、非常に斬新でした。

(C)士郎正宗・Production I.G/講談社・攻殻機動隊製作委員会

第3部の「Solid State Society」でも、同様の現実との接点を強く見いだすことができます。
特にそれが際だつのは「貴腐老人(きふろうじん)」という言葉でしょう。
寝たきりで介護システムに接続され、しなびて死んでいく老人のことです。
「貴腐ワイン」の原料となるブドウにたとえたもので、「寄付」と聞こえること含めて多層的な意味を重ねていると思えます。
事件との関連は本編で驚いていただくとして、「これって他人事じゃないな」と冷や汗が出たところが問題でした。

西暦2034年に、自分は何歳になっているのかカウントしてみたのです。
私は76歳になっているはずです。あそこまで衰弱した老体になってるかは不明ですが、範囲内だろうと思いました。
2D版が制作された2006年は「団塊の世代」の大量退職が話題でした。
太平洋戦争終結の1945年直後に起きたベビーブームが60年経過した時期ということです。
その「団塊の世代」が90歳近くにさしかかっている時代性を意識したとたん、
干支がひと回り違う自分も射程内にはいった気がしました。
この作品にはもうひとつ少子化社会も投影されてますから、
それが絡むとなると、われわれかつての「TVっ子」世代以後が当事者になってくるわけです。

それゆえ、事件の真相には考えこんでしまうところが残りました。
2030年代にあそこまでサイボーグ化社会になるとは考えにくい部分もありますが、
一方でインターネットや携帯電話のこれだけの普及と進化はSF作家ふくめて誰も予想してなかったわけです。
Twitterのタイムラインを見て、サイボーグ社会の電脳会話をのぞき見してる気分になることもあって、
そこで「肉体改造しなくても本質は同じ」という前回述べた押井守監督の指摘が再浮上します。
作り物のフィクションであったとしても、見る観客の属している現実をこのように反射して見せることは可能なわけです。
アニメの中に妙なリアリティを感じたとしたら、きっとそこにはこんな現実とのリンクが隠されているのではないでしょうか。
2D版と3D立体視版と、物語と基本的なシーン自体は同じですが、
サイボーグ化された視線で再見しつつ、
「これは現代についての物語かも」と念頭において、出来事を深読みしてみるのも一興かと思いました。
ではまた次回(敬称略)。


(C)士郎正宗・Production I.G/講談社・攻殻機動隊製作委員会

第24回 『マクロスF』『攻殻機動隊』サイボーグ化が象徴する現代の危機感

[  カテゴリ  氷川竜介のチャンネル探訪  ] 2011年03月11日 13:26

劇場版の完結編「サヨナラノツバサ」が公開中の『マクロスF』

TVシリーズのときから、ギャラクシー船団における「インプラント」は、ある種の危険をともなう怖い技術として描かれていました。
現実世界で「インプラント」とは歯科医療など身体に埋め込まれる器具のことですが、サイボーグというSFでは
おなじみの言葉を使わないのは、人体改造に忌避感がなくなって、より一般にまで拡がった状況を表現するためでしょう。
そこまで人体の機械化が進んだ未来ということで思い出すのは、士郎正宗原作のアニメ『攻殻機動隊』シリーズです。
2030年代のその未来では「義体」という言葉が使われています。つまり「義手」「義足」と同様、身体を補助する機械化ということですね。電脳の補助によって思考するだけでネットの情報へアクセスし、他人とも会話可能な公安9課のプロフェッショナルな活躍には、便利だなというあこがれもありますが、やはりそれだけでは済まない面が描かれています。記憶や認識の改竄もまた、容易になるという事件のかたちで。
特に最初の劇場映画『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』では、主人公の草薙素子が身体の機械化を進めすぎて、
アイデンティティへの危機を抱く様が切実に描かれていました。

(C)1995 士郎正宗/講談社・バンダイビジュアル・MANGA ENTERTAINMENT
人と機械の同居によって何が自分なのか、その境界があいまいになっていく。2004年に押井守監督にこうした話題で取材をしたとき、とても興味深い視点が得られました。「携帯電話でネットに常時接続し、メールなどで会話をし続けている現代人は、すでにサイボーグになっている」というのです。「身体に内蔵していようがしていまいが、本質には関係ない」と、押井監督は言い切りました。これは私もそうですが、スマートフォンでTwitterやFacebookにつながりっぱなしの人が増え、ネットへの依存度が高まった現在では、もっと身近に感じていただける発言ではないでしょうか。
便利ではある一方、自分で判断するという主体性を失うリスクも応分に生じるわけです。たとえばカーナビで目的地をセットして車を運転するのは便利で、私も日常的にやっていますが、ふと「これってカーナビに意識を乗っ取られて、運転されているのは自分じゃないのかな」と疑問がわいたりもします。『S.A.C.シリーズ』で描かれているような、ハッキングや義体の乗り換えで生じる自意識のゆらぎに似ています。
   
(C)士郎正宗・Production I.G/講談社・攻殻機動隊製作委員会
ここまで考えたとき、アニメを見て楽しむ上でも、ちゃんと自分の頭を使って考えているのかな……と、
急に不安になってきました。
もちろん可能な限り作品を視聴し、自分なりに楽しんではいるつもりですが、Twitterなどで「何が話題なのかな」と気にして優先度を決めることも少なくありません。amazonのベスト10なども参照します。
そうした風評を優先して判断するということは、「みんながネットで話題にしているから面白いに違いない」などいう、価値観の刷り込みも誘発しかねないと、急に怖くなったのです。カーナビにあやつられて運転するように、ネットの風評にコントロールされて作品の良し悪しや好き嫌いを決めるようになっては、本末転倒です。
百人が百通りの多様な判断基準で評価すれば集合知になり得ますが、百人が判断した結果だから集合知として正しい、というのはロジックが間違っています。百回とも同じ全体主義的な価値観がコピペされただけの状態と区別がつかないからです。
劇場版『マクロスF』完結編の取材時、河森正治監督はふと「インプラント技術に潜む意識の刷り込みの恐怖」を口にしましたので、冒頭の話をこうつなげるのも的外れではないと思います。
アニメでサイボーグにたとえられて描かれている危機感って、身近なものかも。時には飛躍をおそれず、そんな風に大胆に考えてみることも、無責任な価値観にハッキングされる悲劇への自衛手段かもしれませんね。
ではまた次回(敬称略)。