2011年4月17日、出崎統(でざき・おさむ)監督が亡くなりました。享年67歳。
2年前のテレビアニメ『源氏物語千年紀 Genji』では平安時代の奔放な恋を変わらぬ激しさと哀切あふれる映像で描き出し、
まだまだこれからと思っていたのに、残念でなりません。
まだ26歳という若さで初監督を担当したのは1970年のテレビアニメ『あしたのジョー』です(クレジットはチーフ・ディレクター/制作は虫プロダクション)。
日本を代表するタイトルですが、この作品には出崎統監督のナイフのように鋭い輝きを放つ才気がみなぎっています。

時代は高度経済成長が頂点を越え、大阪の万国博覧会という繁栄を象徴したイベントのある一方で、冷戦構造と核ミサイルの恐怖があり、いくつかの国家が東西陣営に引き裂かれていました。
ベトナム戦争が米軍の介入で泥沼化し、安保闘争や公害問題などが世を騒がす激動の時代なのです。
第二次世界大戦の終結直後のベビーブーム世代(団塊の世代)が20代となって、反戦・反体制をバネにポップカルチャーが世界中で花開きます。
風来坊の不良少年・矢吹丈が、東京近郊のビルや道路を「つくる」労働者が集まるドヤ街に現れ、
そこからボクシングを通じて世の常識をくつがえしていく物語構造も、そうした底辺と頂点のギャップを投影したもの。
梶原一騎・ちばてつやが少年マガジンで連載した原作漫画版は、当時の学生運動の闘士たちにバイブルのように読まれていました。
出崎統監督は戦中生まれですがほぼ同世代で、そうした激変期の空気を吸収しつつ若々しい情熱を矢吹丈に託し、ギラギラした情念を発散させるようアバンギャルドな表現にあふれたフィルムとなっています。
ストーリー的にはジョーがもとボクサーの丹下段平と出逢うことで才能を開花させ、やがて宿命のライバル力石徹とリングで決着をつけるという、原作の前半を描いていますが、残念ながらまだ連載が継続中の原作に追いついてしまい、カーロス・リベラ戦までの全79話で終わっています。
出崎統監督は1980年に『あしたのジョー2』として力石戦直後からカーロス戦を描き直し、ホセ・メンドーサ戦の「真っ白に燃えつきる」という有名なラストまでをアニメ化し、決着をつけました。『ジョー2』は出崎統監督が2つのジョーの間に確立したアニメ文法・技法の集大成のような作品で、現在に至るも大きな影響を及ぼしています。
ですが、ここではやはり原点の第1作目の方に注目してみたいです。
1970年はアニメ文化的にも大きな節目でした。技術的にはトレスマシンという動画のエンピツ線のニュアンスをセル画上へカーボンコピーできる機械が導入され、荒々しい「劇画タッチ」が可能となりました。カラーテレビの普及率が急増して白黒作品が姿を消し始めた時期でもあり、アブノーマル処理など色彩を中心にした新しい表現が可能となり始めていました。出崎統監督のインタビューには「ニュース番組にも実写にも負けない映像を狙いたい」(BD-BOX第2巻解説書)という言葉が残っていて、
こうした新しい表現は過去のアニメの概念を打ち破り、その革新的な想いをかなえる武器となったのです。
結果的に『あしたのジョー』には実験的な表現が次々に登場し、細部までコントロールが行き届いてクリーンに磨き上げられた昨今のアニメとは正反対の「野性味にあふれる世界」が現出しました。極太でかすれた描線がパンチのスピード感を代弁し、クロスカウンターの衝撃は顔面を歪ませ、勝負の一瞬は永遠の時として静止画で定着される。セル画のキャラは、あるときは自然な色彩を失って黄色や赤など鮮烈なモノトーンに染め抜かれ、エアブラシを「布海苔」経由で吹いた異色の背景が異常心理を押し出し、丈の眼光やリングの照明や夕陽はギラギラと輝く。
映像全体が、たたきつけてくるようなある種の圧力を放っているのです。過剰なまでの表現は決してリアルではないのに、真に迫るものを感じることでしょう。これぞテレビアニメが既成概念を打ち破り、新たな表現の可能性を開拓していった代表作なのです。その奔放な映像テイストは、矢吹丈の常識をくつがえす生き様や、自分よりも強い者に向かって容赦なく牙をむき、放たれるパンチとも強くシンクロしています。つまり映像トータルが「語り口」として伝えてくる情熱がある。こうした部分が、野性味・自由を管理社会によって封じられかけ、鬱屈していた当時の若者を強く引きつけたのです。



60年代まで日本のテレビアニメは「キャラクターを見せる」ことが主眼で、子どものものと思われがちでした。
それが70年代に入り、『ルパン三世』や『宇宙戦艦ヤマト』など数々の常識破りな作品で青年以上の観客層を確立していきますが、文化史的には『あしたのジョー』はその若者向けアニメ文化への突破口に位置づけられるアニメです。
このアニメ版がどれだけ印象的で、後世に影響をあたえたか。それは「『あしたのジョー』ってこんな感じの作品」という印象の多くが、実はアニメ版からのものだということからも如実に分かります。連載開始当初、漫画版のジョーは非常に少年的なキャラでした。アニメ版は連載から2年3ヶ月経過してからのスタートのため、ジョーの風貌や等身を大人びた時期に仕切り直したことも大きな要因でしょう。
映像の描き方や視点のとり方も実写映画に近いものでした。第1話「あれが野獣の眼だ!」でドヤ街へと矢吹丈が入っていくシーンは、まるで黒澤明監督の『用心棒』のように暴風が吹き荒れ、ドキュメンタリー映画のごとく主人公にカメラが密着しています。他にも世界のいろんな映画や映像から斬新な映像表現を意欲的に取りこんでいます。
可能な限りマテリアルを駆使して「光と影」「静と動」といった激しいコントラストの衝突の中から「時間と空間」をかもし出す出崎演出。その頂点にあたるのが、第50話「闘いの終り」から第51話「燃えつきた命」にかけての力石徹戦のクライマックスです。沈み込んだ力石徹の身体から汗が糸のように引き、トドメのアッパーカットが命中。受けた丈は宙に大きく舞う……と、劇場版にも転用され、アニメバラエティ番組でも何度となく引用された映像は、ご覧になった方も多いと思います。今年公開された実写版も「アッパーで宙を舞う丈」というイメージで描かれていましたから、多くがそういうイメージを抱いているはずです。
しかし、もし原作漫画をお持ちでしたらぜひ見比べてください。実はパンチを受けた矢吹丈は宙に舞ったりせず、よろめいて倒れるのです。ただし、原作を改変してしまったというのも正確ではないでしょう。漫画を読んだときに読者が脳内にいだく印象を、実時間や色や音などをそなえたアニメの表現に置き換えたときには、こうした落差が生じるということです。
第50話「闘いの終り」より 第51話「燃えつきた命」より


なお、後年の『ジョー2』でもジョーは宙を舞いますが、第51話(絵コンテ担当の崎枕は出崎統監督のペンネーム)冒頭だけは第50話ラストを繰りかえさず、宙に舞わない原作準拠でリメイクされています。「漫画の印象をどう映像にコンバートするか」を研究するとき、なかなか奥の深いサンプルでもあります。
『あしたのジョー』を経た出崎統監督は、『エースをねらえ!』『ガンバの冒険』『宝島』『ベルサイユのばら(後半)』といった数々の名作を手がけます。
そのおよそ10年の実作を通じ、映像センスと技法磨きあげ、時間と予算的に制約の多いテレビアニメの基礎文法となる技法へ高めていきます。
その中には業界のスタンダード的なものになっていくものも多いです。
しかし出崎統監督は、技術者的な発明や開発をしたかったのではないのです。あくまでもその胸の内にたぎる情熱が「観たいのはこれだ!」という映像を求めた。
結果としてそれに応えようとスタッフがいろんな技術を磨きあげていった。『あしたのジョー』第1作には、宝石の原石のような輝きが濃密に詰まっていて、見飽きることがありません。
テレビアニメを変革した偉大なこの作品、ぜひご自身の目で確かめていただきたいなと思います。
そして出崎統監督とその作品に興味を抱いていただければなと。
では、また次回(敬称略)。
第27回 『あしたのジョー』 テレビアニメを変えた出崎統監督のマイルストーン
[ カテゴリ 氷川竜介のチャンネル探訪 ]
2011年04月22日 16:46
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